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東武8000系 [鉄道]

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【実車】戦災による車両の被害は私鉄でも大きく、この救済のため、運輸省が別掲モハ72・73の改良前系列モハ63を幾らか私鉄各社に割り当てた。大手私鉄の一般車が軒並み「20m4扉」で揃っているのはこの払い下げ車が以降の基準になっているからである。さて東武はモハ72・73と同型車を自社アレンジして発注、以後モハ78系列として引き続き製造していたが、昭和30年代後半になり、国鉄を始め同業各社がカルダン駆動・全金属車が標準となってきたところで、床が木製の吊りかけ駆動を作り続けるのは如何なモノかとなったようで、新設計の運びとなり1963年にデビューした。内容はカルダン駆動はもちろんのこと、空気バネ台車にバーニア抵抗を使った超多段制御と面目を一新した。ただ「空気バネ」は「ラッシュ時と閑散時で車体の高さが変わるのを防ぐのが目的」で、「副次効果として乗り心地の向上が図られた」とか酷いことが書いてある。また、バーニア制御で滑らかな加速が得られた一方で、カルダン駆動車のデファクトスタンダードだった発電ブレーキが省略されたため、最高速度域からでも空気ブレーキ一辺倒となり、ブレーキシューの放つ独特の臭気が「東武臭」(東武シュー)などと言われるようになった。さておき、時あたかも高度成長期で乗客数の増加は著しく、「作っても作ってもまだ足りない」状況も手伝い、およそ30年にわたり令和の現在をして私鉄界最多を誇る実に712両が製造されるに至り、「東武と言えば8000系」とか「私鉄版103系」などと呼ばれるようになった。

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当初ツートンカラーの4連と2連がデビュー、1972年頃から冷房化とセイジクリームへの改造・塗色変更が始まり、6両固定、8両固定、そして10連と編成バラエティも拡大、伊勢崎・日光線系、東上線を問わずあまねく活躍。「東武と言えば8000系」なわけだが、通勤メインの浅草・池袋口はさておき、1時間に1本のような区間や宇都宮や伊勢崎まで走り通すロングランまで4扉通勤型のコイツだったわけで「旅行」目的の向きにはメゲた(特急「きぬ」から乗り継ぐ下今市-東武日光間の「連絡特急」にもしれっと使われていた。デラックスロマンスカー下ろされて最後の1駅8000系かい)のではないか。その後も塗色変更や前面のすげ替えなど改良と延命を繰り返して使われ、東武博物館所蔵車となった8111編成がピカピカに保持されている以外、登場から60年を経た令和の現在順次廃車中である。幼時越谷にいたので「毎日見る電車」「良く乗る電車」。「涼しくて、明るくて、貫通路に両開きの扉を備えた奴」が新規に入って来たのを良く覚えている。この時代、各駅停車は50~60km/hまで加速すると惰走に転じて次の駅まで、という実にまったりした「がたん・ごとん」な走りだったが、今にして思えばブレーキシューの節約だろうねぇw

【模型】Nゲージの東武8000系は遠く昭和に当時のマイクロエースが全金属車体+フライホイール動力というはっちゃけた仕様で登場、しかし生産数が非常に少なかったのだろう、住んでいた名古屋の模型屋で遂にお目に掛かることはなかった。その後21世紀になって現在のマイクロエースが新設計で発売、令和になりKATOが出すと聞いて期待したが、最終形態の顔違い色違いであり「KATO製の初期仕様車」が出てくるには10年以上掛かると判断、諦めてマイクロエースの中古をかき集めた。幼い記憶の姿と随分違う気がするが「視点」も「視野」も違うのでまぁいいわ。クリーム2編成と「復活塗装」1編成の計3編成調達。

【運用】これで名鉄に続き「東武モード」が完成。単独で運用できる。各停2編成と準急(昭和50年頃の)にしている。

【改造】
・動力はいろいろいじったがカーブで速度が変わったり、そうでなくてもギクシャクしたりと復活不能と判断、同じマイクロエースの8000系更新車用フライホイール動力をネットオークション等で調達して換装
・トレーラー車は車輪をトミックス新集電(品番0653等・ポン付け交換可能)に置き換え、集電バネもトミックスのバネに置き換え
・行き先・種別幕シールはGMやサードパーティ製のモノを調達。


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