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モハ72・73形(電動客車形式72・73) [鉄道]

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(御殿場仕様)

【実車】1943年、太平洋戦争末期で、人員・貨物の輸送ますます増大しつつある一方、度重なる空襲によって焼損・破壊に至る車両が多く、輸送力不足は慢性的になっていた。修理なり新造するなりして賄わないとならないのだが、金属材料は武器生産が優先で、鉄道車両向けなど望むべくもなかった。こうした中、資材と手順を極限まで切り詰めた「戦時設計」と呼ばれる車両群が製造され、電車においてはモハ63・サハ78・クハ79の「63形」が登場した。彼らは大正期の古い木造車の台枠(コンテナの載っていないコンテナ貨車を想像されたい)を継ぎ足した上に、強度や耐久性を無視したペラペラの鉄板で作った車体を載せた。輸送力を最大限に上げるため、車体長は当時最大の20メートル、乗り降りを迅速にするため扉は4つ、床は木製、イスは殆ど取り付けずしかも木製、つり革の代わりに木の棒やワイヤ、屋根は木造で客室天井板は殆ど無く、ただ、照明の白熱電球をセットするため真ん中だけ設置された。このため屋根を支えるあばら骨がむき出しになった。電線類は所定の規格を無視した細いもので、紐で縛って車体や床下に固定された。台車も木造車からの発生品で、しかも肝心な「モータ」がないため、モハ形式を名乗っても自分では動けず、他のモハ車に引っ張ってもらうという有様だった。「走るバラック」などと呼ばれ、乗った客が「壊れている」と勘違いして降りてしまった、という逸話もあるほど。そんな有様でも、戦争中に作れた車両は30両にも満たなかった。戦後、設計はそのままに輸送力確保のため大量生産に移されるが、1951年、日本の鉄道史上空前の火災事故である「桜木町事故」を発生させる。安全性を度外視し、木製材料を多く用いた車両は電気ショートで炎に包まれ、106人の乗客が焼死した。この結果を受けて設計変更が行われると共に、「バラック電車ロクサン」は新たに運転台付きモハ「モハ73(→クモハ73)」運転台なしモハ「モハ72」そして付随車(モータなし)の「クハ79」「サハ78」となり、通称モハ72・73形として新たにスタートしたのである。最終的には全金属車体に蛍光灯照明の姿となり、旧形国電有終の姿となった。ちなみにここで採用された、

・20m車体に4つの扉
・隣の車両へ幌を通じて行き来できる
・車内のスイッチ(非常コック)を操作してドアを開けることが出来る

は、今も通勤電車のスタンダードな設備、および全ての鉄道車両の「逃げる手段」として制度化されている。ちなみに私鉄でも「20m4扉」なのは、同様に戦後車両不足に悩んでいた私鉄に、いくらかこのモハ63を割り当てた(売った)からである。このように困難を克服しつつ戦後復興・高度経済成長を支えた電車であったが、101系以降の「新性能」電車が増えると地方へ回り、地元の電車として活躍し、1985年、平成を待たずに一族全てが鉄路から去った。

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(京浜東北仕様)

【模型】模型はトミックスHGシリーズ。最初に発売された「ロクサンを改良した姿」のセットと単品で京浜東北線仕様10連としているほか、全金属車、御殿場線仕様が存在。2020年リニューアル品を買い増して動力更新などしている。

・京浜東北:TcMTMMTMc+TcMMc
・全金:TcMTMc(Tはリニューアル品より差し込み)
・御殿場:TcMTMc

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(全金属車「920番台」)

【運用】京浜東北仕様10連は根岸線モードで活躍する。御殿場線仕様はひところ中央本線口にいた同色編成に見立てて運用。全金は関西・昭和モードで各駅停車用に起用。その他各車とも常若に止まるローカルとして適当に徴用する。速度を上げず、適当にガタンゴトン走っていると心の底まで癒される。
【改造】初期製品は新集電TR23を履かせて新集電化してある。また、リニューアル品を利用して動力をフライホイール化。モータはM-13。編成中「MM」はどちらも動力車である。


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